1日2本の対馬交通・青海線で海神神社とヤクマの塔


比田勝(上対馬)から厳原(下対馬)間の縦貫線は比較的新しいバスですが、そこから分岐する路線は対馬交通の古い車両が現役です。もっとも、旅情たっぷりなのはいいけど本数が少なすぎて予定を組むのに苦労しました。


慣れない土地で運転するのはちょっと怖いからバス利用にしたのですが、対馬観光なら素直にレンタカー借りるべきでしょう。今日乗る青海線(おうみ)も、平日のみ1日2本のダイヤ。終点にある神社に参拝した帰りは県道を1時間歩かなければ行けません。





海沿いの崖をへばりつくように走る細い道路をひたすらバスは進みます。



これから行く海神神社(わたつみ)は昔は祭りの時とかそれはそれは賑わったみたいだけれど、いまでは高齢化もあって、ちょっとさびしくなった、とバスの運転手さん。




道は次第に山の中へと入っていき、トンネルを抜けると神社がある木坂の集落です。




神社に行く前にバスの終点の青海(おうみ)へ。隣の木坂と合わせて、日本古来の両墓制が残っている集落です。両墓制とは、参り墓と埋め墓を分ける風習。昔は日常が死と隣り合わせだったからか、死者は身内だろうが忌みの対象だったんでしょうね。



狭い土地を生かして、山肌に段々畑が広がっています。これぞ李鴻章清朝の政治家)が日本に来て驚き書き記した「耕して天に至る」という言葉の通り。




韓国の巨済島はやっぱり霧の中。そういえば、ちょっと前に高校生が津軽海峡を泳いで渡ったというニュースをふと思い出し、「対馬から韓国まで泳いだ人はまさかいないだろう」と調べてみたら、いらっしゃいました…。

www.ikarashi-ken.net

山形のご出身みたいですが、なんと宗谷海峡間宮海峡も泳いで渡ってしまったのだとか。最終目標はベーリング海峡を渡りきること。世の中すごい人がいるものですね。




冬も近い11月の暮れ、朝鮮海峡をすさまじく冷たい突風が吹き荒れます。地元ではアナジとか朝鮮風とかいうらしい。景色はいいけれど、鳥肌が立つような寒さです。




木坂の御前浜には珍しい「藻小屋」が残っています。



対馬の村々では晩春の頃、畑の肥料とするため、舟を操って藻を刈ったり、海岸に漂着した海藻を拾っていました。こうして集めた藻を貯える納屋が「藻小屋」です。海藻を荒れた土の下に敷き、土壌の改良を行うのは北ヨーロッパの国々でも行われているみたい。




どことなく牧歌的で、この小屋、たしかに北欧辺りにあってもおかしくなさそう。石組みなのは風が強い土地柄だからでしょうか。あまり日本で石組みの建物って見たことがない。韓国は石造りの建築が多いと聞くけれど、似た風習あるのかなぁ。




御前浜には「ヤクマの塔」があります。積み上げた石をよりどころに神様がここに降り立つ、ということなんでしょう。日本古来の信仰が息づいている感じがします。それはそうと、海岸の漂着物、なんとかしてほしい。



海神神社(わたつみ)は、小さな集落の村社ながら歴史は古く、中世から対馬一の宮とされています。伊豆山の中腹にあり、つづら折りの参道を登らなければいけません。



境内に一歩足を踏み入れると、そこはもう神聖な原生林。



やっと社殿が見えてきた…




はるかな山の頂から、対馬の海に生きる人々を守り続けてきた海神神社の社殿。とても大ぶりな造りで、見る者を圧倒させます。祭神は初日に訪れた和多都美神社と同じ豊玉姫。どうやら「海の幸、山の幸」の神話で知られる海人族の神社らしい。



司馬遼太郎が「中世の地頭屋敷を思わせる」と称えた木坂の集落も、高齢化で空き家が目立ち、手入れされていない家も多くなったようです。集落を囲む長大な石垣が、かつての繁栄を伝えていて、それだけに今の風景は寂しげに感じました。



これで木坂の集落とはお別れ。予告したように、ここから1時間強、県道を歩いて縦貫線のバス停を目指します。ツシマヤマネコいないかな~と探したが、そう甘くなかった。




「密漁防止」はよく見かけるけど、「密航防止」!!


人家がない山中を歩く私は「不審な人」に入らないかって?まさかぁ…




山越えしてやっとこさ三根(みね)の集落へ。イカ釣り漁は今が最盛期みたい。



ギリギリで2時間に一本の縦貫線のバスに間に合いました。予定通り、ここから下対馬の中心・厳原(いづはら)へ向かいます。



小船越は昔、遣唐使船を陸に引上げて、対馬海峡から朝鮮海峡へ渡したところで、そのもっと前から交通の要衝だったみたい。仏教が日本に最初の伝来したのもこの地です。


この小船越にアマテル神社(写真バス停の上)があります。祭神はアメノヒノミタマ(天日神)という太陽神。天照大神との関連も指摘されています。

「古代航路の拠点に鎮座する古社です(中略)。日本書紀によると、5世紀、遣任那使・阿閉臣事代(あべのおみことしろ)が神託を受け、対馬のアマテル・タカミムスビを磐余(奈良県)に、壱岐のツキヨミ(月神)を京都に遷座させています。対馬壱岐の祭祀集団を中央に移動させる政治的意図があったのかもしれません。」


出典:一般社団法人 対馬観光物産協会編「対馬神社ガイドブック」(2017年)10頁


ここに出てくる「京都に遷座」とは松尾大社のことですね。対馬壱岐から都に派遣された祭祀集団が住んでいたのでしょうか?



万関瀬戸は、明治の日本海軍が掘削した巨大な運河。日露戦争の時、水雷艇がこの運河を通ってバルチック艦隊と対峙しました。



代わって大船越は江戸時代に宋氏が完成させた運河。手作業ながらわずか3年で完成したそう。集落も比較的大きいですね。



やがてバスは厳原の町の中心部へ。このあとはさらに南へ行くバスに乗り換え、対馬の島が玄界灘へと尽きる、突端の集落を訪ねます。ただ乗り継ぎまで30分ほどあるので、それまでこの宋氏の城下町を歩いてみたいと思います!


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