厳原城下町から対馬の禁足地オソロシドコロ

対馬の中心都市は厳原(いづはら)ですが、これは明治に新しく付けられた地名でして、江戸時代は府中と呼ばれ、対馬藩の宋氏の城下町として栄えました。この地にゆかりがある人物に雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)がいます。


雨森芳洲は近江生まれの対馬藩儒者で、対朝鮮外交で大活躍した江戸時代初期の人物です。中国語も韓国語もペラペラで、教養も豊かで、なにより知的好奇心の塊みたいな人だったようですが、日本では長く忘れ去られていました。


ところがこの間亡くなった韓国の盧泰愚(のてう)大統領が、来日した際に雨森芳洲を持ち出して昔みたく日韓関係を良くしようと国会で演説し、日本でも芳洲に注目が集まって研究が進められたとか。韓国では芳洲の功績は語り継がれていたようです。



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厳原の町並み。武家屋敷や寺社町の雰囲気を伝える石塀と門が残されています。NHK新日本紀行」の1967年の映像を見ると、昔はもっと江戸時代の雰囲気が色濃かったみたい。いまや厳原は東横インすらあるからなぁ。上対馬を放浪したあとで厳原についたとき、バスターミナルの辺りは都会そのものでびっくりだった。


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そうはいっても、今も古い家が点在しています。


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個人的な感想だけど、厳原はどこか那覇と共通するものを感じました。中心部は新しい建物やショッピングモールができて綺麗だけど、ちょっと町外れの小路を歩くと、脈々と受け継がれてきた歴史を垣間見ることができます。


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町中に突如「聖地」が現われるのも那覇そっくり。



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せっかくなので雨森芳洲のお墓にお参りしてきました。芳洲の時代も、秀吉の朝鮮出兵のあとで、日朝関係はズタズタでした。それでも「誠信之交隣」を提唱し、「互いに欺かず、争わず、真実を以て交わる」との方針のもと、友好親善に努めました。


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とりわけ朝鮮通信使の申維翰(シンユハン)との親交は有名です。ちなみに芳洲は江戸期に流行した男色を嗜んだそうで、これを見た申維翰は、さすが儒教ガチガチの李氏朝鮮の役人らしく、男色趣味を「奇怪極まる」と言って眉をしかめたという。もっとも芳洲は「学士はまだその楽しみを知らざるのみ」と逆に諭したとか。


このやりとり、想像したらめちゃくちゃ笑えます。



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さて、続いて対馬最南端の豆酘(つつ)へ向かいます。この路線も1日たった2本!


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「土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径のごとし」という「魏志倭人伝」の記述の通り、ものすごい山道をバスはひた走ります。


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上代日本にはじめにもたらされた稲は赤米だったといわれています。いまも伊勢神宮では神様に赤米が供えられるはず。ハレの日に赤飯を炊くのも赤米が神聖視されたことと関係があるのでしょう。なんと、ここ豆酘では、赤米をいまだに作り続けています。


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そんな古代からの伝統が息づく豆酘の集落にも、上対馬で参拝したのと同じ多久頭魂神社があります。タカミムスビカミムスビの子神タクズダマの墓が、豆酘裏手の龍良山(たてらさん)原生林の中にあって、そこの遙拝所の役割を果たしているようです。


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境内には「不入坪(イラヌツボ)」があって、背後の龍良山とあわせて「オソロシドコロ」と言われ、禁足地になってきました。Googleマップみるとタクズダマの墓にマークがあって、行く人もいるみたいだけど、案内つけずに余所者が興味本位で山に入るのは避けた方がいいかも知れませんね。禁足地になるのにはそれだけの理由があるのでしょう。


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立派な鐘があります。1008年に阿比留宿禰良家(あびるのすくねよしいえ)が奉納したと銘文があるよう。阿比留氏は平安時代対馬を治めていた豪族みたい。のちに対馬藩の藩主となる宋氏に滅ぼされます。


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この神社の境内にタカミムスビ神社があります。こここそ、遣任那使が取り憑かれ、神託を受けた場所。すごく神さびています。


ところで、今でこそ日本の辺境の離島である対馬に、カミムスビタカミムスビといった天皇家の祖神である三柱のうち2つの神様を祀る神社があるのでしょうか。司馬遼太郎の『街道をゆく』に面白い言及があります。

「『古事記』に出てくる高天原の神々が多く対馬の山河に鎮まっている。このことは、対馬ト部たちが対馬の山で祀っていた「天」を象徴する神々を、天皇家が亀トの祭祀を主宰するという北方アジア的立場上、祖神として吸い上げたのか、それとも江上波夫氏がいわれるように古代天皇家騎馬民族の首長として北方からその祭天の習俗をもちつつ対馬をへて南下し、本土に入ったということのあとづけとして右のようになるのか、いづれともよく分からない。」


出典:司馬遼太郎街道をゆく13 壱岐対馬の道』(朝日文庫 1985年)212頁


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私は江上先生の騎馬民族征服王朝説って、本当だったとしても不思議はないと思っているんですけどね。最近はトンデモ説のように思われている節もあるけれど。


大陸文化の交差路であるこの対馬を歩いて遺跡とか神社とかをめぐると、古代人が自由に舟を操って海を行き来していた姿が浮かび上がってくる。まぁ、玄界灘のフェリーごときで酔った若者が言っても説得力無いけど(笑)



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多久頭魂神社の社。薄暗い原生林の中にあって、オソロシドコロを背後に控えているし、ちょっと一人では怖かったです。


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社殿裏手、対馬で一番大きいというご神木のクスノキ


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豆酘にはもうひとつ、雷神社という古社があります。祭神のイカツオミ(雷大臣)は神功皇后三韓討伐の時に仕え、そのあと当地で亀卜を伝えたらしい。



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帰りのバスまで暇なので、隠ス山の山道を歩いて西浦へ。「隠ス山」っていうのも何か由来がありそう。昔人が住んでいたのか、あるいは他の何かかよく分からないけれど、深い森の中に不思議な石組みを見つけました。



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こんな人気が無くて深い谷にも放棄された棚田がありました。対馬で生きていくのは本当に大変だったんだな。


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厳原に戻って宿のゲストハウスへ。そもそも対馬にゲストハウスがあるのが驚き。もっともコロナ対策で個室しか予約できず、それでいて3500円という良心的な値段。


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夕食はふたたび寿司屋へ。よっぱらった地元のおっさんが、あまりここでは書けないようなたわごと言っていて、食事に集中できなかったぞ。


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宿はシャワーのみで風呂がないとのことで、バスで40分ほど離れた高浜という集落にある真珠の湯温泉に入りに行くことにします。どうせバス一日券あるし、宿にいてもすることないですから。海岸線を歩くと、イカ釣り漁船の明かりが煌々と闇夜に輝いていました。


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一見するとやっているのか分からず不安になるのですが、やっています!入湯料400円で、やる気のなさそうなおばさんが番していた。それがローカルっぽくてまたいい。


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最終バスまで1時間半暇なので長湯。いいお風呂でした。次回はようやく最終日です。



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