1908年に始まった南米移民。ブラジルなどの南米諸国に向かう日本人移民を乗せた船が旅立った街が神戸でした。1928年に完成した国立移民収容所の建物が残されており、「神戸市立海外移住と文化の交流センター」として、移住者が最後に過ごした日々や移住先での生活についての貴重な写真や資料、所持品などが一般に公開されています。
ブラジルなどへは神戸港からシンガポール、スリランカ、南アフリカを経由して約50日の船旅。その出発前の10日間はこの建物で寝起きを共にし、健康診断、ポルトガル語研修、現地の気候や地理の講義を受けるなどしました。
1971年に最後の移民船が出航するまでの間、神戸から旅立った移民の数は北アメリカなども入れると実に40万人にのぼります。
南米移民は日本の人口対策や救貧対策そして外貨獲得手段として、またブラジル等の奴隷制を廃止した国での労働力不足を背景に成立しました。明治から太平洋戦争での中断期を経てバブル景気直前まで移民が続けられ、中南米には現在、213万人もの日系人が暮らしています。うちブラジルが約100万人と圧倒的に多く、次いでペルー(8万人)、アルゼンチン(3万2千人)がそれに続きます。
移住推進ポスターは新天地での成功を約束するような内容ですが、移住先での苦労を考えるとなんだかなぁ。そもそも当時は南米の事情がどの程度入ってきたのでしょう。
渡航案内書。「寄港地の案内」などまるで観光ガイドブックみたいのもあります。
移住者の出身地は中国地方、九州、北海道、戦後は沖縄が多くなっています。
日本人移民の歴史。ブラジル移民は1908年の笠戸丸から始まりました。
移民達が最後の日本での生活を送った部屋がそのまま残されています。少しでも船での長旅に慣れてもらおうと、船室を模した造りになっています。ただ、実際の3等客室とかの写真を見ると、こんなに快適そうな空間ではないですね。
すでに書いたように、神戸で船に乗るまでの10日間、移住者はポルトガル語講義や買い出し、予防注射や健康診断などで大忙しでした。もっとも、その合間に寄席に行ったり、神戸見物をしたりと、日本最後の思い出づくりをすることができました。
神戸の商人が記念で移住者全員に送った手ぬぐい。
「郷愁に つながるものか 幾年を 母が放さぬ 手ぬぐい一つ」
移住者が詠んだ、なかなかジーンとくる歌。
航路案内図。パナマ運河開通後も多くは西回り航路で行ったそうです。
大阪商船(今の商船三井)の移民船「サントス丸」。日本からは移住者を乗せ、ブラジルからは農作物などを乗せて日本と南米の間を航行しました。
船内で有志が発行した「ラプラタ新聞」。移住者達に現地の様子や寄港地での観光情報、さらに乗船者の寄稿を載せて、50日の船旅でも退屈しないよう努力しました。ラプラタっていうのは「母をたずねて三千里」にも出てくるアルゼンチンの大河の名前です。
ちなみに船内では運動会や赤道祭、演劇会、ラジオ体操、ポルトガル語、スペイン語教室が開かれ、思ったほど窮屈ではなかったようです。また、同じ船で移住した日本人はお互いを「同船」と呼んで、いわば同郷のように移住先でも親しくしたそうです。
船がサントス港に着くと、サンパウロにいく者、アマゾンの奥地マナウスに行く者、そして他の南米諸国に行く者と分かれ、それぞれの入植地に向かいました。
熱帯雨林を切り出す写真があって、びっくり。
手作業で切り出していったのだから苦労が偲ばれます。日本人移住者が切り出した熱帯雨林の総面積は、四国と九州を足した面積になるそうです。今日のブラジルの広大な農地が多くの日系人の汗によって開拓されていったことは知らなかった。
こうして農地ができあがったわけですが、その後も単作障害に悩まされたり、稲作をやろうと湖沼に近づいてマラリアで一家全滅したりと、数々の苦難が待ち受けていました。
コーヒー採取につかう農機具や、蟻対策で使った道具などが展示されています。
これが実際に熱帯雨林を切り出した巨大な刃物。
日本人移住者の苦労はそれだけではありません。太平洋戦争ではブラジルやペルーは日本の敵国になったので抑圧をうけました。同時に、戦争への対応をめぐって移住者同士で深刻な軋轢が生まれました。溝は戦後しばらくたっても埋まらなかったそうです。
一方で、多くの苦労を乗り越えて現地で大成功を収め、ブラジルの経済発展に貢献した移住者も多くいます。なかでもジュートと胡椒は移住者がブラジルに打ち立てた2大商品作物です。行きの船でシンガポールやスリランカから種や苗木を密かに持ち出したらしい。
ブラジルだけでなくパラグアイやボリビアなど南米各国に数千から数万人規模の日系コミュニティーがあって、今なお文化交流が海を越えて続けられています。
アルゼンチンは経済発展が著しく、仕事を求めてブラジルやペルーから転住した日本人が多く集まりました。アルゼンチンの人はとてもおおらかで、日本人移住者も溶け込みやすかったようです。太平洋戦争中も中立を貫き、日本人に寛容でした。
日本がバブル景気に沸くと、今度は中南米の日系人が日本に出稼ぎに来るようになりました。「神戸市立海外移住と文化の交流センター」ではこうした日系人に対する支援も行っているそうで、日系人の子供達のかわいらしい絵を見て、思わずほっこり。
南米移民の存在は知っていたものの、この資料館を訪れるまではここまで日系人が苦労を重ねて今の礎を築き上げてきたことは全く知らず、衝撃を受けました。
南米移民も、日本の近現代史を語る上で欠かせない出来事だし、日本に生きる私たちとしても、故国を離れて地球の裏側の地で、数々の苦難を乗り越えてきた日本人移民の存在をもっと知る必要があるように感じます。
私の知識不足もあって、全てを紹介できないため、リンクを貼っておきます。
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ブラジル移民とその歴史についてもっと詳しく知りたい方は国立国会図書館の特集ページに解説があり、古写真や貴重な資料も見ることができます。
→ 国立国会図書館「ブラジル移民の100年」