いつから日本人は狐に化かされなくなったのか(近代と民俗学①)

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 柳田國男の『遠野物語』と聞いたら、誰しも「ああ、河童とか狐とか出てくるやつね~」ぐらいの知識はあると思う。だけれども、狐に化かされた話だの、幽霊や怪奇現象を集めた話だのはそれ以前にもあった。たとえば越後の伝承や風俗を紹介した鈴木牧之の『北越雪譜』なんかは江戸時代にベストセラーとなった。


では日本の民俗学の先駆けともいわれる『遠野物語』はどの辺が画期的だったのか。自分的には、文明開化を迎えた明治時代の話であるというのがミソなのだと思う。


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遠野物語』の17話にザシキワラシの話がある。注目すべきはザシキワラシを見たのが良家の子女、高等女学校のエリート女学生であるという所だ。明治の学校システムという近代性とザシキワラシという前近代のものが1つのストーリーのなかで交錯している。


もっとも『遠野物語』の民俗学上の意味の話は、研究手法とかそのへんにあるとするのが一般的である。これは脱線になるから、民俗学の授業に譲るとして、ここから先は自分なりに「伝承」と「近代」の交錯に考えていきたい。


「狐に化かされた」という伝承はよくあるが、みなさんの周りにそういう経験をした人はいるだろうか?まぁ恐らくいないと思う。そんなの昔話の中のフィクションでしょ、あり得ない、なんて思っているかもしれない。そもそも狐なんか見たことないし...


だけど、果たして「フィクション」として片付けてよいものか、ちょっと疑問だ。


というのも江戸時代の人に「狐に化かされた」と言って回ったら、結構な数の人が信じると思うからだ。ところが我々はそうではない。これは科学の発展や文明の進化がもたらした「前近代」と「近代」の違いによるものなのか?


ところがどっこい、文明開化の明治の御代にだって、狐に化かされた話はいくらでもある。しかも、我々からしたらトンデモナイ話が登場するのだ。


今朝、会社に行くために品川駅の山手線のホームで電車を待っていたら、目の前を電車が通過した。なんと、狐が電車に化けていたのだ!!


なんてハナシ、誰が信じるだろうか。ところが、明治時代のみならず、昭和初期にでさえ、狐が汽車に化けたという「偽汽車」伝説が存在するのだ!


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しかも狐に化かされるなんて言うのは山奥の農村の話だけかと思えば大間違い。なんと東京の亀有や神奈川の国府津なんかにも、この「偽汽車」伝説がある。


汽車の運転手が単線の線路で列車を運転していたら、前から汽車がやって来た。危ない!とあわててブレーキを踏むが間に合わない。ああ、衝突する!と目を伏せた途端、突然パッと対向する汽車が消えてしまった。運転手は夢でも見ていたのだろうと思ったが、後でその現場から狐の死骸が見つかった。おそらく鉄道により住処を奪われた狐が汽車に立ち向かおうとしたのだろう。たたりを恐れた鉄道員たちは近くに稲荷神社を建てた。


大体がこんな話だが、注目すべきは公共空間という鉄道の特徴と、その近代性だろう。すなわち、①目撃者が運転手だけではないこと②「鉄道」という文明開化の象徴で起きた事件であること、が特筆すべき点だ。


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多くの人に偽汽車が目撃されている。現代人からしたらあり得ない話だが、「伝説」の形で残っていると言うことは、それだけ人々に受け入れられた証である。文明開化の裏側で「前近代の産物」が最後のあがきをしているような感じだ。


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思うに、偽汽車伝説の背景には「人々の自然に対する畏怖」「文明開化の背後で薄れゆく伝統の抵抗」といったものがあるのだろう。そしてそれを共有するだけの土壌があった。近代化する流れの中で、一定数、このままでよいのか疑問に思う人がいたことは確かであるし、このことは実に面白い。


だが時代がさらに進むと状況も変わってくる。戦後の高度経済成長、都市化、農村の衰退、こういった流れの中で、「前近代的な文化」はすっかり息を潜めてしまい、狐やタヌキや雪女が活躍する場は完全に失われてしまった。恐らくこのことが偽汽車伝説を「フィクション」にしたのだろう。


しかし「伝説」や「伝承」がなくなったわけではない。むしろ、それらは人とともに都市にやって来て、姿を変え、活躍している。


たしかに農村社会を基盤にした風俗や伝説、伝統、通過儀礼といった従来の民俗学の研究対象は急速な勢いで失われつつある。だけれども、いくら環境が変わっても、人がいるところには伝承がつきものである。都市伝説なんかは、その代表格。ここまで科学が進んでも、「忌みの風習」は残っているし、「漠然とした不安感」の行き着く先は、不可解な事象なのである。偽汽車伝説と構造は何も変わっていないではないか!


さて、ここで終わりにしてもいいのだが、もう少し近代の「伝説」を考えたい。せっかくだから続いて家の近所、京都にある偽汽車伝説の舞台に行ってみようと思う。というわけで次回はその話から。


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