よろしく先ず萩より始むべし!松陰先生ゆかりの地をのんびり散歩

【山陰の旅①】大阪~門司・下関~萩


どっか行くといいながら、何だかんだどこにも行けずにいた学生最後の?夏休み。もう残すこと1週間となった9月末に、ふらりと出かけることにしました。


山口県萩市から、日本海側に沿って京都を目指します。2泊以上の旅行は2年ぶり。


萩へはフェリーと電車、路線バスを乗り継いで向かいます。乗り継ぎさえ上手くいけば、京都発の夜行バスよりも安いのが理由。
関西から萩まで格安で行く方法を考えてみた - コースチャの部屋



というわけで五島列島以来、久々の名門大洋フェリー
知らない間に新造船になっていました。



夕やけの明石海峡大橋とか、瀬戸大橋の夜景とか見えたし、展望浴室も眺めがよく、フェリー体験記だけで1記事かけてしまいそうなほど充実した時間でした。


翌朝、5時30に北九州の門司に到着。



関門海峡を渡って下関から電車に乗り換え…



新下関から新山口まで新幹線を利用して…(ホームに出てみてびっくり。なんと500系が来ました。かっこいい!)



新山口から路線バスに2時間弱揺られてやっとこさ到着。山口県の萩です。


ようやっと本題、と思いきや、ここでアクシデント発生!
普段使っているコンデジの調子がおかしくなって、何やら曇ってしまい、周囲に異物が映るのです。そんなわけで基本的にはスマホで写真を撮って、どうでもいい写真をデジカメで撮ることにしました。


基本的にはもうスマホの写真でいいんですけどね。
問題は電池が早くなくなることと、シャッター音ですかね…。



萩の観光名所は、吉田松陰ゆかりの史跡がある地域(青い丸)と、城下町エリア(赤い丸)に集中しています。滞在時間は4時間。あまりにも列車の本数が少ないから、どう予定を組んでもこれがMAX。今回は、青い丸⇒赤い丸⇒玉江駅と効率よく回ります。



まずは有名な松下村塾から。建物が当時のまま現存しています。



松下村塾ははじめこの写真奥の8畳の建物で開かれていましたが、門弟が増えて10畳間を増築しました。


大雑把に松陰の年表を書くとこんな感じ。

1830年 誕生
1840年 数え11歳にして、藩主の前で兵学を教授
1854年 ペリー来航の際に密航を企てて失敗
1855年 実父の杉家での幽閉を条件に保釈、近親者相手に講義を開始
1857年 幽閉室を出て、8畳間で松下村塾を主宰
1858年 老中の襲撃計画を理由に投獄
1859年 江戸に護送されて処刑


高杉晋作伊藤博文山縣有朋など、吉田松陰とかかわりのあった明治維新の立役者が数多くいることを見ても、松陰が歴史に与えた影響はすさまじいものがあります。なにより驚きなのは、松下村塾が開かれていたのはたった2年半ということです。



よく教科書で見た写真がたくさん。




密航失敗後に幽閉されていた部屋も松陰神社内に残っています。



松陰神社内には松陰の名言の小道があって、なかなか面白い。

松陰は色々な事を言っていまして、例えば、「世の中の動静に関心を持ち、正しい判断をするためには、自ら徹底的な分析をすることこそ不可欠。」

これを「飛耳長目」というらしいですが、いろいろ現代人も松陰から学ぶことがあるのではないでしょうか。



松下村塾の近くには初代内閣総理大臣である伊藤博文の旧宅があります。下級武士といってももとは農民の出であり、のちの出世を考えればずいぶんと質素なかやぶき屋根です。



実は、「松下村塾」というのは松陰の叔父にあたる玉木文之進が自宅で開いた私塾の名前でした。その名を松陰が借りたわけです。というわけで「元祖」松下村塾は玉木家なわけですが、玉木家の建物も現存しているのが萩のすごいところ。



管理しているボランティアの方の話によると、「萩は空襲がなかったからねぇ」と。ここ最近まで、この茅葺きの住宅、借屋だったそうです。

当時は畳敷きでなかった、とか囲炉裏があった、天井がなかったなど、多少改築はされているみたいですが、本当によく残っていますね…



続いて、玉木家裏手の東光寺へ。松陰神社は観光ツアーや歴女でにぎわっていましたが、ここまでくるともう誰もいません。私もボランティアの方にすすめられなかったら来なかったと思いますが、結果的にはすごくよかった。



東光寺は毛利家の菩提寺です。3代以下、奇数のお殿様のお墓があります。偶数のお殿様は萩駅近くの大照寺に葬られています。なんで二つに分けたんですか、とボランティアの方に聞いたら、「いっぱいになるから」…(笑)


宗派は黄檗宗(おうばくしゅう)。あまり聞きなれません。



夏も終わりですが、毛利家の墓はツクツクボウシが鳴き、それはそれはどこか寂しげで、なんか別世界に来たようでした。



東光寺の横から抜けると、萩市内を一望できる場所に至ります。



ここは吉田松陰の墓があるところ。お花がいっぱい手向けられていました。



続いてバスに乗って城下町に向かいます。



ここらぐらいまで来て、スマホの電池がほぼなくなったため、地図を一切見ないで適当に歩きました。計画なしの路地裏散歩も結構楽しいですね。



「女台場」に行き当たりました。尊王攘夷を掲げる長州藩が、米仏蘭の船に砲撃した報復を恐れて、長州藩が海岸沿いに作った土塁です。

武士の妻たちも協力したことから、この名前が付いたのだとか。




海まで出ました。晴れたらきれいだろうな。


ちなみに浮かんでいる幾多の島は、阿武火山群という火山です。




高校も歴史ある街並みに溶け込んでいます。



立派な長屋門が結構残っていますが、裏側に回るとシロアリにやられていたりする。なんとか予算つかないものなのでしょうかね…



城下町で飛びぬけて大きい桂小五郎の旧宅。伊藤家とは比べ物になりません。同じ「長州閥」で一括りにされがちですが、萩に来てみないとわからないことが色々あります。



散策の最後に堀内鍵曲に寄りました。ここらあたりは上級武士の住まいだったそうです。しかしながら、明治維新後、士族は落ちぶれ、生活のために夏みかん畑に転じたのだそう。萩が「土塀とみかんの町」といわれる所以も、こういう歴史が背景にあるのだとか。



さて、萩散策はここまで。続いて萩を後にして島根方面へと向かいます。
では今日はこの辺で。


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