フェリーうみてらし、風濤蹴天の玄界灘を越え神話の島へ

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乗船するのは博多港22:30発、対馬の北端にある比田勝行きのフェリーうみてらし。五島列島に行ったときに使った博多ふ頭から出発です。


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新造船ながら、オール2等で雑魚寝。他にバックパッカーが1人、地元の人が10人ぐらいでガラガラでした。ところが…


玄界灘は大時化。船首が直角に波をかぶるたびに、ズゴーンというものすごい衝撃が体全身に伝わり、とても眠れたものではありません。さすがの自分もちょっと船酔い気味に。こういう時に下手に動くと余計具合が悪くなるので、じーっと我慢。


その昔、日本遠征を目論むフビライに、「海は風濤(ふうとう、風と波のこと)天を蹴る勢いで、危ないから止めとけ」と高麗王が手紙を書きました。今はまさに「風濤蹴天」。これが幾多の船を飲み込んだ玄界灘か、鉄器も稲作も仏教も命がけだったんだな、、


玄界灘って、限界灘じゃないか、なんてしょーもないこと考えてみたり。



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自分は知らない間に眠ってしまったようで、午前3時に比田勝港に到着。眠りたい人は7時まで船内休憩できるようだけど、一刻も早く下りたかったので、とりあえず下船。


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フェリーターミナルは開いているので、日の出まで休憩できます。


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ツシマヤマネコ、ばり可愛いか~!!これは守らんば!


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外は星がすごい!もはやどれがオリオン座かも分からないぐらいです。



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暇だし朝日でも見るかと、懐中電灯片手に殿崎へ。日の出は綺麗だけど、ここに来るまで真っ暗な中、茂みをかき分けていたら、よくわからん鳥が突っ込んできて恐怖だった。


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この殿崎は100年ほど前、日露戦争日本海海戦で沈んだロシアの軍艦から逃れた水兵が上陸した場所。当時、島の人は近くで戦争をしているなんて全く知らなかったそう。畑仕事をしていた女性が発見し、近くの西泊集落の人総出で民家に泊め、手当てをしました。


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そのこともあり、今では日露友好の碑が建っています。駐日ロシア大使も来たこともあるらしい。驚くことに数年前、ウラジオストクから水兵の子孫がボートで海を越えてやってきて、地元の人と交流したのだとか。常識を打ち破るあたり、実にロシア人っぽいw



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殿崎から比田勝の権現山までハイキングコースがあって、行ってみることに。


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対馬の入り江にはスサノオと子神イソタケルが訪れた場所があり、昔から土地の人は強烈なタブーと教えられ、禁足地となっています。製鉄にまつわる植樹の伝説もあるらしい。「日本書紀」には、高天原を追放されたスサノオは、のちに新羅となるソシモリという場所に降り立ち、そこが気に入らなくなって出雲に移ったとの記述がある。


スサノオは大陸に住んでいた製鉄家集団のリーダーで、彼の地で木を切りつくしてしまったあと、対馬を通って出雲まで海を渡り、たたら製鉄を広めたのかもしれませんね。そう考えると、古代は今では考えられないぐらいスケールの大きな世界だったんだなぁ。


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こっちの方角に韓国が見えるはずですが、晴れているのに見えません。冬は風が強いので難しいようです。かといって夏は水蒸気で見えないらしいし。夜来るといいよ、と地元の人に言われました。明日もう一回チャンスがあるのでトライしてみたいと思います。


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対馬は山また山の連続。道路ができるまでは対州馬という対馬の在来馬で山や断崖絶壁を越えて往来したのだとか。NHK「新日本紀行」に1967年の貴重な映像が残っています。



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バスで比田勝から仁位(にい)へ向かいます。なかなか年季の入ったバス営業所です。


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木造の待合室は昭和がそのまま閉じ込められたよう。と思ったら、運行系統図まで昔のまま更新されていないぞ。いくつか存在しない路線が描いてある(笑)



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仁位から40分ぐらい山道を歩いたところに和多都美神社(わたつみ)があります。



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ここは豊玉彦の竜宮であり、祭神の山幸彦と豊玉姫が出逢った場所とされています。古代の日本に住んでいた海人族が「竜宮」に例えた場所だけあって、対馬では珍しく、リアス式海岸の奥にあって波が穏やかです。弥生時代対馬の中心だったと考えられています。


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拝殿前にならぶ5つの鳥居のうち2つは海中にあり、満潮時は海中に、干潮時は干潟の上に露出します。また秋の大潮の満潮時には拝殿近くまで海面が上昇するそう。このとき、海の女神の力も「最高潮」に達すると考えられ、神楽が披露されるのだとか。


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「竹敷の玉藻なびかし榜ぎ出なむ君が御舟をいつとか待たむ」

万葉集のこの歌は、この地の娘が風待ちをしていた遣新羅使と親しくなり、ひたすらその帰りを待ちわびる歌らしい。当時の情景が浮かぶようで、美しい。しかしこれほどの歌を土地の娘が作れると言うことは、都に引けをとらない先進的な地域だったんですね。



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社殿のそばには竜の形をした御神木があります。


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卜占(ぼくせん)で昔使っていた石がそのまま残っています。この占いは上代の「科学」でした。発祥は中国の殷。それから1000年の時を経て、はるばるこの国境の島にたどり着き、独自の進化を遂げたのです。(当時は国境なんて概念は怪しかったわけですが)


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山幸彦と豊玉姫が親しくなり、生まれた子供(神武天皇の祖父)の産湯に使った玉ノ井。


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豊玉姫の墓が「竜宮」の裏手の原生林の中にあります。


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森に一歩足を踏み入れると、とても神聖な雰囲気で、身も心も洗われる思いをしました。


さて、続いては再びバスに乗って、神社めぐりの続きとツシマヤマネコに会いに行きます。まさかのヒッチハイクも??(笑)


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